自分の力で生きることを教えてくれた1人暮らし


はじめて実家を離れたあの日。

 

わたしはこれまで色々な仕事を
経験してきましたが、

その中でもいちばん
ツラかったのが、

生まれて初めて九州を離れ
1人暮らしをしたことです。

 

うちの実家は団地なので

世帯の収入額によって、

家賃も毎年査定され
変動することがあります。

ただうちは、父が
生まれつき障害者
なので
他の家庭とは違い、

割引が利いてて

ただでさえ安い家賃が
さらに割引で助かっていたんです。

 

ただ、私はその当時
まだ20代前半だったので

実家にいたまま
私がそのまま働いていると、

両親よりも倍くらい
収入が多かったので
家賃が高くなってしまうんです。

そのせいもあって、
23歳になる年の冬に
母にこう言われました。

『アンタもたまには
1人暮らしをしてみなさい』

 

でも私はそれまで
地元でしか暮らしたことがなくて

急に県外に行くっていう
概念は
全くなかったので、

母にそう勧められても

最初はものすごく嫌で嫌で
仕方がありませんでした。

 

そして、私は
派遣会社に登録をして、

親戚も住んでいるため、
初めて愛知県へ行くことになり、

地元を発つ当日。

今でもその光景は
忘れられませんが、

1月か2月の寒空の中、
両親が2人一緒に
地元のJRの駅の改札口で

ずっと手を振って
見送ってくれました。

 

初めての県外行きで、
しかもいつものお出かけとは違い、
行けばしばらくは帰れません。

その事実を実感したのは、

新幹線がある博多へ向かうため
地元からのJRの電車に乗って
地元を出発した後でした。

 

私は、見送ってくれてた両親を
電車の中で小さくなって
見えなくなるまで
見ていました。

だって、一人娘で、
ずっと家族の側でしか
暮らしたことが無かったので

すごくすごく行くのが嫌で
出発地点の博多に着くまで
ずっと涙が止まりませんでした。

あの淋しさは今も
忘れられません。

 

きっと産んでくれた母の方が、

たった1人きりの娘を
遠くへ送り出すのは

ツラかったと思います。

だけどずっと家族に甘えて育ち、
傷つけられて苦しみ、
弱かった私を心配して、あえて
送り出してくれたんだと思います。

今では行かせてくれたことに
とても感謝をしていますが、

愛知へ行ったばかりの頃は、
初めての土地、初めての1人暮らし
初めての職場、職種で、

それに、
知り合いも誰も居なくて、

当時は親戚が愛知にいることも
知らなかったので、

初めての環境だし、
孤独で怖さと不安しか
ありませんでした。

なので、初めのうちは
ホームシックがもの凄くて

うすれば帰れるんだろう・・・

と、九州へ帰郷することばかり
考えるツラい日々が続きました。

 

愛知での新しい暮らし。

 

愛知に行った私は、

派遣会社に派遣された
SONYの工場で働きました。

そこには3階建ての
大きなマンションのような
女子寮があったので、

そこで1人暮らしをしました。

 

最初は不安しかなかったけど

そこには、愛知の人以外に
日本全国だけじゃなく
海外の方も多く働いてました。

 

いちばん多かったのは
日系ブラジル人で、
日本に出稼ぎに来られていました。


私はそこで、日本人が
少ない
ブラジル人だらけのライン
検査という仕事をしました。

 

工場での仕事も初めてで
知らない土地で暮らすのも

何もかもが全部
新鮮な私にとって、

最初は不安と緊張感しか
ありませんでした。

 

 

もともと人見知りが激しく
他人と関わるのが
苦手だった私ですが

ブラジルの方は母国語が
英語ではなくポルトガル語なので

英語だったらまだ
どうにか出来るけど、

コミュニケーションが
どうこうの前に、

言葉そのものが
通じなかったんです(笑)

中には日本語が
ペラペラな方もいたので
たまに通訳してもらって
助かってましたけどね(笑)

 

仕事は2交代
夜勤では寝ないように

自由に好きな音楽をかけて
仕事が出来たんですが、

ブラジルの方だらけの
現場だったので、

ずっとサンバが流れてて
みんなノリノリに盛り上がって
陽気に仕事をするんです(笑)

真面目な日本人には
それが衝撃でしたね~(笑)

 

私も細かい作業がある
検査の仕事をしてたので

好きだった音楽の
CDやMDを持っていって、

現場でみんなの好きな曲を
順番に流しながら、
楽しく夜勤をしてました♪


そして寮には

私と同じ九州出身の方や

また沖縄、北海道、
東北から来てる人もいて、
色々な方言が飛び交ってて、

言葉が通じない面白さと、

女子寮だったのもあって、

毎日が修学旅行のようなノリで

楽しく過ごせるようになり、
私のトラウマも薄れていきました♪

なので、人見知りを気にするより、
会話を通じさせるのに必死で(笑)

ある日気がついたら、

どんな方とも、
自分から
積極的に明るく声を
かけられるようになってました♪

 

そして仕事以外では
新しい土地に慣れるために、

休みの日には仲良くなった
職場の日本の友達や
ブラジル人の女性の友達と一緒に

お買い物やカラオケに行ったり
名古屋まで電車で行ったりして

愛知での暮らしに少しずつ
自分から慣れていきました。

日勤では食堂がありますが
寮や夜勤では自分で用意しないと
ご飯が食べれないので、

出来なかった自炊
するようになったし、

それまでは親にすべて
やってもらってましたし、

初めて県外での
たった1人での暮らしで

色んな試練や壁もあったし
すごく大変だったけど、

 

でもおかげで自分の力だけで
生きていく方法を

自分自身で経験して
泣いたり苦しんだりして、
1つずつ乗り越えて
慣れていきました。

 

それまで過去のトラウマや
弱い自分を言い訳にして
何ごとからも逃げてたけれど、

出来ないことも、
努力をして
行動を続けていれば、

出来るようになるんだ!

初めて愛知で暮らしたことで

初めて前向きに努力することの
大切さが分かりました。

そこのおかげで、
ネガティブにばかり考えることが
いかに無駄なことかを思い知り、

自分のダメな事から目を逸らずに
受け止められるようになりました。

 

バイト先が急に倒産!今度は関東へ。

 

愛知には2度上京し
暮らしましたが、

しばらくして九州へ戻り、

地元の街で販売業のバイトを
2つ掛け持ちしたりして
生活をしていました。

 

その中でも、今でいう
BOOKOFFのような

中古の本やCDや
ゲームソフトの売買をする
別の本屋のチェーン店があって、

そこで働いていた頃、
ビックリする出来事が起きました。

そのお店にはちょうど
専属の店長さんが
異動したばかりでいなくて

近隣のお店の店長さんが
たまに
管理しに来て下さっていて、

 

私は早番のリーダーとして、
日勤で店長代理の仕事
学生のバイトさんに
仕事を教えたりしていて

遅番の夜の時間は
別の男性の先輩が
お店を
まとめて下さってました。

 

そこで数年間働いていて

仕事も面白かったし、
やり甲斐もあったので、
ずっと続けるつもりでした。

 

でもある時、
そのバイトから帰宅して


両親と夕食を食べていると、

突然、家に電話が
かかって来たんです。

 

その電話は、遅番の
男性の先輩からで、

私が『どうしたんですか?』
と聞くと、返って来た返事が、

『あのさ、明日から朝、
 お店開けなくて良いからね』

って言われたんです。

私は早番の担当だったので

出勤日は、お店の鍵を
朝、開けるところから
1日の仕事が始まります。

なので、お休みじゃない時は
お店の鍵を預かって帰ってたんです。


『えっ!何でですか???』

ってもちろん聞きました。すると・・・

『お店は明日からやらないんだって』

 

ある日突然、お店を経営している
親会社が倒産し、
次々とお店を
閉店していたんです!

 

その電話は、倒産の報告
お店の鍵を返しに来い
という連絡でした。

 

その頃、私は20代後半で
30代近かったし、

特にスキルも資格もなくて、

九州のど田舎では、
そんな歳では中途採用が難しくて
求人もお給料も少ない為、


いきなり無職にされて
転職もなかなか出来ず、
途方に暮れてしまいました。

 

家族の側で暮らしたくて
地元に戻って暮らしていたけど、

愛知に行ったことで、都会の
暮らしが好きになってたし、

田舎の不便さが
住みづらく感じていたので、


そこで、私は思いました。

だったら、仕事がある街に
また行こう!と、

そして今度は、
ずっと
住んでみたかった街で

親戚も住んでいた

神奈川県東京へ上京し、
10年近く1人暮らしを続けました。

 

関東でも、
経験してた
工場の検査業で
色々な街に派遣されて
働き続けました。

その時は、
関東での暮らしが大好きで、
離れたくなかったので、

出来れば関東にそのまま
住み続けたいと思っていました。

 

だけど私には、更に大変な
人生最大の転機
待ち受けていました。

 

人生最大の転機。大好きな母の急逝。

 

関東に住んでる時に
2007年に実家で同居してた
祖母が長生きで人生を終えていて

その時実家は両親だけでした。

2009年1月中旬、
私にとって人生最大の
転機となる出来事が起こりました。

 

実家の近くの熊本には、
父の姉である叔母夫婦が
住んでいて、

たまに実家を
訪ねてくれていました。

その2009年1月のある日、

実家にいた叔母と父から
私の携帯に電話がかかって来ました。


でも父はかなりの機械音痴で

まぁ・・・ 片手に指が無い
障害があるせいもあるけれど、

電話なんて普段は
ほとんどかけてこない人で、

むしろいつも母からばかりでした。

 

でも、その時は珍しく
電話をしてきたのは叔母でしたが

代わった父からこう言われました。
『すぐ帰って来なさい』と。

もちろん理由を聞きました。

すると、父は小さな声で
こう言いました。

『お母さんが亡くなったけん
 帰って来てくれ』

 

私は心臓が止まるかと
思うほど驚いて、
放心状態になりました。

それもそのはずです。

 

母は体がとても強く
病気もしたことが無ければ
風邪もめったにひかない人でした。

 

逆に祖母と父は、
病気をしてた人だったので

そんなに元気で働き者で
体が頑丈だった母が、
なぜ突然亡くなったのか

当時はすぐに現実が
受け止められませんでした。

原因

働きすぎによる
急性心不全で、

自宅で父の目の前で
突然倒れ、そのまま
帰って来ませんでした。


その時世間では、

派遣会社が次々とつぶれてたり
仕事が激減していた時代で

いわゆる派遣切りという
社会現象が起きていて、

私が働いていた場所も
仕事が無くなりかけていました。

そんな時に父からの
この電話でした。


私は急遽飛行機を取り、
1度実家へ戻って、

母のお通夜には
間に合わなかったけど、

叔母が代わりに
色々してくれていて

私はお通夜の翌日の
お葬式には間に合ったので、
母を見送ってあげることが出来ました。

 

でも、1年ぶりの再会
母の人生の最期だったので

急に倒れて突然
いなくなったため、

その年のお正月は
仕事の関係で帰省が
出来なかったので、

福岡には帰ってなかんです

なので、帰れなかったことを
今も後悔しています。

何も言えず、家のことも
何も引き継がれないまま
教われないままなので、

10年以上経った今でも
未練が残ったままです。

色々と迷惑もかけたし
私をいちばん守ってくれたのが
母だったので、

今でもずっと
後悔しっぱなしです。

 

だけど、私にはまだ
父がいてくれていました。

父は片手が
生まれつき
障害者ですし
病気もしていたので、
家のことは全く出来ません。

なので、そこから私は
もう1度関東へ戻り

部屋の荷物を整理して、

関東での夢をあきらめ、
福岡へ帰郷するしか
ありませんでした。

そして、

父が生きていくためには
生活の全てを私がたった1人で
こなさなければならなくなり、

私にとってとても苦しい
生活が始まりました。

 

でも、母が最初に
私の背中を
押してくれたから

勇気を出して
1人暮らしも出来たし、

自分の力で生きていくことが
出来るよう強くなれたので、


色々苦しかったり大変だったり

淋しい想いも色々したけど、

県外へ行くことを
勧めてくれた両親には
今でも感謝しています。

そのおかげで、前向きに
生きていられています。

 

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松尾貴世(たかよ)

【雇われ労働で生活に苦しむ方を応援】元:販売&接客&営業約20年│仕組みでの働き方を提案│YouTube歴2年│未経験でも安心して取り組める【note&SNS】でのコンテンツビジネスを提案中♪│1人っ子▶天涯孤独▶体を壊し仕事失う▶絶望▶2018年よりネットビジネスで再出発│持ち前の努力&前向きさ&行動力を武器に幸せを目指し活動中(^^)/ 私の詳しい自己紹介はプロフィールを見てね(^^)/

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